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わたしたちの医療(下越病院について)

下越病院の活動

無産診療所

 無産者診療所運動とは、医療を労働者・農民(当時これらを無産者と表現した)のものとすることをめざして展開された医療運動で、昭和5年1月、東京大崎に初めて無産者診療所がつくられたことから始まります。「当時の農民の貧しさはひどいもので、長女から四女まで娘を全部女郎に売るような生活の中で、医療はほとんど開業医の自由診療で、重い病気、長い病気では医療費を払うことが出来ないという状況」(新潟勤労者医療協会『30年の歩み』より)でした。新潟は「木崎争議」(小作争議)で結成された農民組合によって昭和6年10月から無産者医療運動が「意識的に問題にされはじめていった」といわれています。

 昭和8年 小作農民によって葛塚医療同盟が結成され診療所を開設し、時同じく五泉にも無産者診療所がつくられました。この葛塚・五泉の診療所は、昭和16年4月「弾圧」閉鎖されるまで農民たちに守られて運動を続けたといいます。この昭和16年12月には太平洋戦争が始まっています。
こうした無産者医療運動に尽くした人々によって、戦後(昭和27年)に勤労者医療協会が設立されました。五泉の無産者診療所の所長であった酒井澄医師は名誉理事会長です(平成13年11月逝去)

新潟水俣病のたたかい

 「昭和40年6月12日~水俣病~が公表された直後、医学生・新日本医師協会新潟県支部・市水道労組・新潟県勤労者医療協会・新婦人・新潟医労協などによる学習会を開き、その場で新潟県民主団体水俣病対策会議(民水対)の準備会がつくられ・・・私たちは年1回、新日本医師協会・民医連・医学生などで健診を行い、患者の疑いのある人たちを把握していった・・・」(新潟勤労者医療協会『30年の歩み』)

 新潟における水俣病患者の発生は、昭和39年8月 阿賀野川下流・下山地区の農民でした。昭和40年1月以降、第2・第3の患者が現れ、新潟大学医学部の県当局は早い時期に有機水銀中毒=水俣病であることを認識していたと思われます。同じ時期に、新潟地震被災地の健康診断で阿賀野川流域を担当していた勤労者医療協会・沼垂診療所のスタッフは、こうした神経障害患者の発生を察知しており、斉藤恒医師(当時沼垂診)は熊本水俣病と類似していることに気づきます。勤医協理事会への報告や共産党新潟県委員会に相談する中で、被害の実態を明らかにし、多くの団体と共同して、公害反対の運動を起こしていくことになります。

  私たち勤医協それに共産党・社会党・医労協・新潟新聞労組・民放労組・地区労・日本科学者会議・新婦人の会など23団体が参加する「民水対」の正式発足は昭和40年8月25日でした。その10月には県と交渉して医療費の補助など患者救済の「特別要綱」を制定しています。そして、12月23日に「被害者の会」が結成されました。その後、昭和電工と国・県に対し、被災者救済と公害発生・隠蔽の責任を追及する裁判が行われることになります。 関川智子医師(現沼垂診療所所長)や富樫昭次医師(現下越病院名誉院長)をはじめとした職員が、裁判闘争に協力していきます。

災害支援活動

【新潟地震】1964年(昭和39年)6月

 新潟にM7.2の大地震が起こり、多大な被害を及ぼしました。このとき、私たち勤労者医療協会はもちろん、全国各地から民医連の仲間が救援活動に取り組みました。
 「参加者延べ400名を超える医療班が1ヶ月間にわたって活動し、地元を含む救援活動参加人数は延べ1,800人にもおよびました。活動期間中における取り扱い患者数は約1万人に達し、災害救助法に基づく診療請求を行った88医療機関の取り扱い件数の66%を民医連がしめた」(新潟勤労者医療協会『30年の歩み』)とされ、 日赤や医師会の救援活動を超える活動を展開したとされています。
 この活動をもとに新潟市に「ときわ診療所」が発足しています。

【阪神・淡路大震災】1995年(平成7年)1月17日

 死者:6,434名、行方不明者:3名、負傷者:43,792名を出した大震災には地震発生直後から「医療チームを派遣しよう」との決定を行い、医師  名、看護師ほか技術系  名、事務系職員  人が現地入りしました。
 第一班は交通機関が非常に混乱していたなかで警察に誘導を依頼し、幹線道路を逆走して現地にたどり着きました。
 発災直後は全国から駆けつけた民医連職員とともに東神戸病院での救急治療にあたるとともに、地域を訪問し健康相談活動を行いました。

厚生大臣からの感謝状
厚生大臣からの感謝状

【中越地震】2004年(平成16年)10月23日

 新潟民医連に加盟するながおか生協診療所・かんだ診療所では大きな被害はありませんでしたが、デイサービス(通所介護)のスペースを開放し、避難所的な役割を果たしました。
 長野や群馬をはじめとした関東甲信越地域の民医連・医療生協からの支援物資が翌日には到着し、被災した患者・住民への配布を行いました。保健・医療活動では避難所での血圧チェック・健康相談を近隣の民医連の職員と一緒に旺盛に行いました。
 新潟民医連としてのながおか医療生協への支援は安否確認を含め延べ264人となっています。
 その他にも各自治体が設置したボランティアセンターでの協力や、仮設住宅・組合員さん宅を対象とした雪下ろしボランティアなど、多彩な取り組みが行われました。

【中越沖地震】2007年(平成19年)7月16日

 新潟県知事からの派遣要請に応えDMAT(災害派遣医療チーム)を派遣、16日午後~18日朝まで厚生連刈羽郡総合病院を拠点に被災現場での診療や救急医療の一端を担いました。
 避難所への救護班としても医師・看護師・薬剤師・事務系でつくるチームが3回参加しました。

【東日本大震災】2011年(平成23年)3月11日

  • DMATチームが当日午後7時に病院を出発、12日午後から夜まで盛岡市の消防学校で沿岸地域から救出された被災者を救急車に乗せ換えて同市内の病院に搬送する業務に従事。13日の正午から午後6時まで「仙台医療センター」にてER業務に従事しました。
    また南相馬総合病院からの患者受け入れるにあたり、新潟県消防学校にて県内DMATチーム・消防隊と協力して患者トリアージ、応急処置などを行いました。
  • 新潟県からの要請に応え、石巻の医療支援に医師1人、看護師2人、薬剤師1人、事務1人を2泊3日で派遣しました。
  • 民医連加盟の宮城県坂総合病院(多賀城市、災害拠点病院)に医療支援として、医師8人をはじめ、看護師、薬剤師、事務職員など延べ140人を派遣しました。救援物資として薬、ガソリン、飲料水、果物などを届け、被災地から避難してきた方で透析が必要な方を入院8人、外来14人を受け入れました。
県知事からの感謝状
県知事からの感謝状
この他にも水害支援や能登沖地震などにボランティアとしてたくさんの職員が参加しています。